東京オリンピック
1964年10月10日からの23日間は、日本中がテレビの前に釘付けになりました。アジアで初めての東京オリンピックが開催されたんですよ。その盛り上がりたるや、日本中がお祭り状態。日頃は高校野球を除いてアマチュアスポーツに興味がなく、テレビで見ることはなかった私ですが、オリンピックだけは違いました。94ヶ国、5500人の選手が参加した大イベントで、事前に各国の有名選手の情報を集め、夢中になってテレビを観ました。
学校でもオリンピックの話で盛り上がり、私たち男子生徒の話題の中心は、同世代選手が多かった女子水泳。特に背泳は美形ばかりで、ガリ勉くんまでが「キャシー・ファーガソンはいいねェ」なんて言い出すしまつ。私のお気に入りは、フランスのクリスチーヌ・キャロン。“キキ”の愛称で、週刊誌のカバーガールになるくらい可愛かったです。“ミミ”の愛称で絶対的人気があったのが、当時、岡山山陽学園の1年生だった木原光知子。日本のエース・田中聡子さんは、彼女たちと比べるとオバサンで、私たちの間ではかすんでいましたよ。それにしても、水泳におけるアメリカ選手はメチャクチャ強く、連日アメリカ国歌ばかり聞いていました。画像は、当時の木原光知子。
日本は全部で16個の金メダルを獲ったのですが、最初に金メダルを獲ったのが重量挙げの三宅義信選手。馬鹿力でバーベルを持ち上げるだけの単純なスポーツだと思っていたのですが、精神を集中してバーベルに向かう姿に思わず感情移入してしまい、お腹に力が入りました。
重量挙げは体重により7階級に分かれており、世界一の力持ちは、もちろんヘビー級。ちなみに三宅選手はフェザー級。ヘビー級で優勝したのがソ連(現:ロシア)のジャポチンスキー。本命は同じソ連のウラソフと予想されていましたが、ジャポチンスキーがウラソフを破り金メダル。ウラソフは開会式の入場行進でソ連国旗を片手で持って入場したので印象に残っていました。閉会式ではジャポチンスキーがウラソフと同様に国旗を片手で持って入場しましたね。画像は、ジャークで世界新記録を出し、圧勝した三宅義信。
テレビの瞬間視聴率が95.4%と、史上最高記録を出したのが、日本女子バレーボールが優勝を決めた試合です。5年間無敗を誇るニチボー貝塚を中心に編成された日本チームは、世界選手権でもソ連を破り優勝。金メダルが確実視されていました。10月23日の決勝戦に勝ち上がってきたのは、予想通り日本とソ連。“赤い旋風”と呼ばれて恐れられるソ連に対して、日本は“東洋の魔女”。ソ連の力の攻撃を回転レシーブで防ぎ、変化球サーブやフェイント・時間差といったテクニックを駆使して攻撃。第1セットを15-11、第2セットを15-8と連取した日本は、14-13でマッチポイントを握ります。ここで、ソ連がオーバーネットのミス。日本はストレートで勝利し、金メダル。
鬼と呼ばれた大松博文監督の「だまって俺についてこい」は流行語になりました。ただ、猛練習と根性が、その後のスポーツ界にとって良かったのかどうか……?
体操男子は、前ローマ大会に次いで団体で金、個人総合でも遠藤幸雄選手が金、鶴見修治選手が銀メダルを獲得。種目別は鉄棒の小野、跳馬の山下が活躍。山下の名を冠したヤマシタ跳びはウルトラCの技。体操競技は、シュタルダーとかトカチェフとか、技の創案者の名が技になっているのが多くて興味がわきます。
体操女子は、何といってもチェコのチャスラフスカ。彼女の太腿に思わぬ妄想を抱いた若き男子がいたのは間違いなし。
東京オリンピックから正式種目となったのが柔道。軽量級・中量級・重量級・無差別級の4階級に分かれ、軽量級で中谷、中量級で岡野、重量級で猪熊が金メダルを獲得しましたが、無差別級で優勝したのはオランダの巨人ヘーシンク。敗れた神永とは圧倒的に対格差があり、“柔よく剛を制す”とはいかなかったのです。
陸上では追い風ながらも男子100m走で10秒の壁を破った(9秒9)ヘイズ。この後、アメフトのダラス・カウボーイズに入団して活躍しました。ロケットスタートで期待された飯島は、準決勝で敗退。プロ野球のロッテ・オリオンズに代走専門で入団しましたが、足が速いだけでは盗塁はできず、活躍できませんでした。
陸上のトリといえばマラソン。話題はエチオピアのアベベ。ローマでは裸足で走って金。東京では靴を履いていました。日本の円谷はゴール直前でイギリスのヒートリーに抜かれて惜しくも銅メダル。しかし、あの姿は感動的でした。この4年後、「もう走れません」と遺書を残し自殺。期待に押しつぶされた27歳でした。
日本のオリンピック関連総投資額は、開催までの7年間で1兆円を超え、空前の規模に諸外国は“30億ドルのオリンピック”と驚嘆。だけど、その8割は、新幹線・高速道路・地下鉄などの交通網の整備にあてられました。日本が先進国の仲間入りを果たしたことをアピールするとともに、首都圏の過密化をこの機会に打開するのが国家的目的だったのです。そのため、オリンピック開幕前の東京はいたるところで工事がおこなわれ、新しいビルを建てたり道路を広げたりするために古い家が次々と取り壊され、地面は穴ボコだらけ。子供たちの遊び場であった空き地もなくなっていきます。道や川の上を高速道路が塞ぎ、情緒ある東京の風景が様変わり。下町育ちの知識人たちは憤慨していましたね。
私のように地方に住む少年たちは、“オリンピックは政治の道具”などという考えが、この世に存在しているとは思わず、単純に熱狂したので~す。
画像は閉会式。各国の旗手の入場の後、各国の選手が自由に入場。最後に入場した日本の旗手・福井さんは肩車をされ、性別や人種に関係なく腕を組んで、笑顔でトラックを一周。平和の祭典にふさわしい幕切れで、以後の閉会式のスタンダードとなりました。
学校でもオリンピックの話で盛り上がり、私たち男子生徒の話題の中心は、同世代選手が多かった女子水泳。特に背泳は美形ばかりで、ガリ勉くんまでが「キャシー・ファーガソンはいいねェ」なんて言い出すしまつ。私のお気に入りは、フランスのクリスチーヌ・キャロン。“キキ”の愛称で、週刊誌のカバーガールになるくらい可愛かったです。“ミミ”の愛称で絶対的人気があったのが、当時、岡山山陽学園の1年生だった木原光知子。日本のエース・田中聡子さんは、彼女たちと比べるとオバサンで、私たちの間ではかすんでいましたよ。それにしても、水泳におけるアメリカ選手はメチャクチャ強く、連日アメリカ国歌ばかり聞いていました。画像は、当時の木原光知子。
日本は全部で16個の金メダルを獲ったのですが、最初に金メダルを獲ったのが重量挙げの三宅義信選手。馬鹿力でバーベルを持ち上げるだけの単純なスポーツだと思っていたのですが、精神を集中してバーベルに向かう姿に思わず感情移入してしまい、お腹に力が入りました。
重量挙げは体重により7階級に分かれており、世界一の力持ちは、もちろんヘビー級。ちなみに三宅選手はフェザー級。ヘビー級で優勝したのがソ連(現:ロシア)のジャポチンスキー。本命は同じソ連のウラソフと予想されていましたが、ジャポチンスキーがウラソフを破り金メダル。ウラソフは開会式の入場行進でソ連国旗を片手で持って入場したので印象に残っていました。閉会式ではジャポチンスキーがウラソフと同様に国旗を片手で持って入場しましたね。画像は、ジャークで世界新記録を出し、圧勝した三宅義信。
テレビの瞬間視聴率が95.4%と、史上最高記録を出したのが、日本女子バレーボールが優勝を決めた試合です。5年間無敗を誇るニチボー貝塚を中心に編成された日本チームは、世界選手権でもソ連を破り優勝。金メダルが確実視されていました。10月23日の決勝戦に勝ち上がってきたのは、予想通り日本とソ連。“赤い旋風”と呼ばれて恐れられるソ連に対して、日本は“東洋の魔女”。ソ連の力の攻撃を回転レシーブで防ぎ、変化球サーブやフェイント・時間差といったテクニックを駆使して攻撃。第1セットを15-11、第2セットを15-8と連取した日本は、14-13でマッチポイントを握ります。ここで、ソ連がオーバーネットのミス。日本はストレートで勝利し、金メダル。
鬼と呼ばれた大松博文監督の「だまって俺についてこい」は流行語になりました。ただ、猛練習と根性が、その後のスポーツ界にとって良かったのかどうか……?
体操男子は、前ローマ大会に次いで団体で金、個人総合でも遠藤幸雄選手が金、鶴見修治選手が銀メダルを獲得。種目別は鉄棒の小野、跳馬の山下が活躍。山下の名を冠したヤマシタ跳びはウルトラCの技。体操競技は、シュタルダーとかトカチェフとか、技の創案者の名が技になっているのが多くて興味がわきます。
体操女子は、何といってもチェコのチャスラフスカ。彼女の太腿に思わぬ妄想を抱いた若き男子がいたのは間違いなし。
東京オリンピックから正式種目となったのが柔道。軽量級・中量級・重量級・無差別級の4階級に分かれ、軽量級で中谷、中量級で岡野、重量級で猪熊が金メダルを獲得しましたが、無差別級で優勝したのはオランダの巨人ヘーシンク。敗れた神永とは圧倒的に対格差があり、“柔よく剛を制す”とはいかなかったのです。
陸上では追い風ながらも男子100m走で10秒の壁を破った(9秒9)ヘイズ。この後、アメフトのダラス・カウボーイズに入団して活躍しました。ロケットスタートで期待された飯島は、準決勝で敗退。プロ野球のロッテ・オリオンズに代走専門で入団しましたが、足が速いだけでは盗塁はできず、活躍できませんでした。
陸上のトリといえばマラソン。話題はエチオピアのアベベ。ローマでは裸足で走って金。東京では靴を履いていました。日本の円谷はゴール直前でイギリスのヒートリーに抜かれて惜しくも銅メダル。しかし、あの姿は感動的でした。この4年後、「もう走れません」と遺書を残し自殺。期待に押しつぶされた27歳でした。
日本のオリンピック関連総投資額は、開催までの7年間で1兆円を超え、空前の規模に諸外国は“30億ドルのオリンピック”と驚嘆。だけど、その8割は、新幹線・高速道路・地下鉄などの交通網の整備にあてられました。日本が先進国の仲間入りを果たしたことをアピールするとともに、首都圏の過密化をこの機会に打開するのが国家的目的だったのです。そのため、オリンピック開幕前の東京はいたるところで工事がおこなわれ、新しいビルを建てたり道路を広げたりするために古い家が次々と取り壊され、地面は穴ボコだらけ。子供たちの遊び場であった空き地もなくなっていきます。道や川の上を高速道路が塞ぎ、情緒ある東京の風景が様変わり。下町育ちの知識人たちは憤慨していましたね。
私のように地方に住む少年たちは、“オリンピックは政治の道具”などという考えが、この世に存在しているとは思わず、単純に熱狂したので~す。
画像は閉会式。各国の旗手の入場の後、各国の選手が自由に入場。最後に入場した日本の旗手・福井さんは肩車をされ、性別や人種に関係なく腕を組んで、笑顔でトラックを一周。平和の祭典にふさわしい幕切れで、以後の閉会式のスタンダードとなりました。
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