白痴番組
評論家から白痴番組と称される番組が色々ありました。元々は社会評論家の大宅壮一が、「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう」と言った“一億総白痴化”からきており、低俗番組を白痴番組と云ったんですね。だけど、面白いもんだから人気がありました。
白痴番組のはしりは、テレビ創生期の『なんでもやりまショー』(日本テレビ系列で1953年9月5日~59年4月25日放送)です。三国一郎の司会による、出場希望者たちに、文字どおり何でもやってもらうゲーム形式の公開番組。六尺棒を立て、その上に座布団を何枚数多くのせられるかの競争、ピンポン玉をバウンドさせ、ピンポン玉とほぼ同じくらいの大きさの受け皿に何回キャッチできるかを競うといったゲームをするんです。三国一郎が吹くラッパを合図にゲームを始め、勝った人が賞金千円、負けた人はスポンサーのバヤリース・オレンジ半ダースを獲得。やがて、“屋外ビッグゲーム”と“どっきりカメラ”の二つのコーナーに分かれます。隠しカメラで通行人などにいたずらを仕掛け、その反応を映し出す“どっきりカメラ”は、ハプニングの面白さの反面、行き過ぎた悪ふざけと顰蹙を買い、大宅壮一のヤリ玉にあげられ低俗番組の代表になったのです。
同じ日本テレビ系列で62年10月、トニー谷の司会による『アベック歌合戦』が始まります。ソロバンを軽妙にあやつり、踊りの仕草を交えて、「あなたのお名前、なんてえの!」というトニー谷の名調子で相手をのせ、「わたしの名前は、〇〇よ」と応える出場者。この番組に出場するのは一般人の男女。必ずしも恋人や夫婦でなくてもいいのですが、やに下がった若いカップルが圧倒的に多かったです。私の友人に、同級生をこの番組の応募に誘ってフラれたバカな奴がいましたよ。子供たちが登場することもしばしばあって、大人だけでなく、子供たちにも人気。トニー谷が、ツイストまがいのクネクネ踊りをしながら、前述のように名前を聞いたり、軽薄で他愛もないことを話したのちにアベックに歌わせます。クネクネ踊りが卑猥だと番組向上委員会からワースト番組としてやり玉にあげられますが、68年3月まで続く人気番組になったのです。
『アベック歌合戦』よりもっと低俗で、白痴番組の横綱と酷評されたのが『踊って歌って大合戦』(日本テレビ系列で65年4月2日~66年5月27日放送)です。家族や職場などのグループがチームで出場。舞台の上でモンキーダンスを珍妙なスタイル(寿司屋チームの場合はネタを握る手つき、床屋チームは髪を切る手つき等)で単に踊り狂うという番組。伴奏もゴーゴーリズムに限らず民謡から歌謡曲までというムチャクチャ加減。司会は初代・林家三平で、三平の号令とともに、出場者はムチャクチャな踊りをします。「さあ、うたって、おどって、ワッショイ、ワッショイ!」と言いながら三平も、阿波踊りとツイストをミックスさせた独自の踊りを花道の設けられた舞台を行ったり来たりしながら踊りまくるのね。そして、その踊りのパワーに応じて、審査員(浜口庫之助・若水ヤエ子・フランク永井)が点数を表示。優勝者には“発明賞”が、それ以外のチームで特にインパクトがあったチームに“ハッスル(今では死語だね)賞”が贈られました。公開録画の会場には定員の2倍以上の観衆がおしかけ、雑踏整理に警官が出動する騒ぎまで起きたんですよ。
同じ日本テレビ系列ですが大阪の読売テレビが製作した番組に『そっくりショー』(64年11月3日~69年3月25日放送)があります。容姿がスターに似ている人を自薦他薦で集めた出場者の中から選び、チャンピオンを決めるというだけの番組。司会は漫談の小野栄一で、審査員は丸尾長顕や安倍寧など。スター本人もゲストに招かれ、歌手だった場合、そっくりさんはその歌手の持ち歌を歌い、歌手でない場合はそのスターのイメージにあった歌を歌ったり、しぐさを真似したりする趣向。歌の上手い下手は関係なく、あくまでどれだけ似ているかが基準。チャンピオンになれなくても、審査員にインパクトを与えた出場者には特別賞が贈られました。また、チャンピオンばかりを集めたチャンピオン大会や、特別賞受賞者ばかりを集めた特別賞大会も開催。
第1回の村田英雄の巻でいきなり30%の視聴率をあげ、関西地区ではなんと44%をマークしました。公開録画ホールへの入場券にプレミアムがつくほどの騒ぎとなります。
白痴番組は日本テレビの独壇場となり、担当プロデューサーは白痴番組と揶揄されることに誇りを持っていました。揶揄されるということは、それだけ視聴者に注目されていることですからね。この後にも日本テレビは、『底抜け脱線ゲーム』『コント55号 裏番組をぶっ飛ばせ!』といった人気白痴番組を製作していきま~す。
白痴番組のはしりは、テレビ創生期の『なんでもやりまショー』(日本テレビ系列で1953年9月5日~59年4月25日放送)です。三国一郎の司会による、出場希望者たちに、文字どおり何でもやってもらうゲーム形式の公開番組。六尺棒を立て、その上に座布団を何枚数多くのせられるかの競争、ピンポン玉をバウンドさせ、ピンポン玉とほぼ同じくらいの大きさの受け皿に何回キャッチできるかを競うといったゲームをするんです。三国一郎が吹くラッパを合図にゲームを始め、勝った人が賞金千円、負けた人はスポンサーのバヤリース・オレンジ半ダースを獲得。やがて、“屋外ビッグゲーム”と“どっきりカメラ”の二つのコーナーに分かれます。隠しカメラで通行人などにいたずらを仕掛け、その反応を映し出す“どっきりカメラ”は、ハプニングの面白さの反面、行き過ぎた悪ふざけと顰蹙を買い、大宅壮一のヤリ玉にあげられ低俗番組の代表になったのです。
同じ日本テレビ系列で62年10月、トニー谷の司会による『アベック歌合戦』が始まります。ソロバンを軽妙にあやつり、踊りの仕草を交えて、「あなたのお名前、なんてえの!」というトニー谷の名調子で相手をのせ、「わたしの名前は、〇〇よ」と応える出場者。この番組に出場するのは一般人の男女。必ずしも恋人や夫婦でなくてもいいのですが、やに下がった若いカップルが圧倒的に多かったです。私の友人に、同級生をこの番組の応募に誘ってフラれたバカな奴がいましたよ。子供たちが登場することもしばしばあって、大人だけでなく、子供たちにも人気。トニー谷が、ツイストまがいのクネクネ踊りをしながら、前述のように名前を聞いたり、軽薄で他愛もないことを話したのちにアベックに歌わせます。クネクネ踊りが卑猥だと番組向上委員会からワースト番組としてやり玉にあげられますが、68年3月まで続く人気番組になったのです。
『アベック歌合戦』よりもっと低俗で、白痴番組の横綱と酷評されたのが『踊って歌って大合戦』(日本テレビ系列で65年4月2日~66年5月27日放送)です。家族や職場などのグループがチームで出場。舞台の上でモンキーダンスを珍妙なスタイル(寿司屋チームの場合はネタを握る手つき、床屋チームは髪を切る手つき等)で単に踊り狂うという番組。伴奏もゴーゴーリズムに限らず民謡から歌謡曲までというムチャクチャ加減。司会は初代・林家三平で、三平の号令とともに、出場者はムチャクチャな踊りをします。「さあ、うたって、おどって、ワッショイ、ワッショイ!」と言いながら三平も、阿波踊りとツイストをミックスさせた独自の踊りを花道の設けられた舞台を行ったり来たりしながら踊りまくるのね。そして、その踊りのパワーに応じて、審査員(浜口庫之助・若水ヤエ子・フランク永井)が点数を表示。優勝者には“発明賞”が、それ以外のチームで特にインパクトがあったチームに“ハッスル(今では死語だね)賞”が贈られました。公開録画の会場には定員の2倍以上の観衆がおしかけ、雑踏整理に警官が出動する騒ぎまで起きたんですよ。
同じ日本テレビ系列ですが大阪の読売テレビが製作した番組に『そっくりショー』(64年11月3日~69年3月25日放送)があります。容姿がスターに似ている人を自薦他薦で集めた出場者の中から選び、チャンピオンを決めるというだけの番組。司会は漫談の小野栄一で、審査員は丸尾長顕や安倍寧など。スター本人もゲストに招かれ、歌手だった場合、そっくりさんはその歌手の持ち歌を歌い、歌手でない場合はそのスターのイメージにあった歌を歌ったり、しぐさを真似したりする趣向。歌の上手い下手は関係なく、あくまでどれだけ似ているかが基準。チャンピオンになれなくても、審査員にインパクトを与えた出場者には特別賞が贈られました。また、チャンピオンばかりを集めたチャンピオン大会や、特別賞受賞者ばかりを集めた特別賞大会も開催。
第1回の村田英雄の巻でいきなり30%の視聴率をあげ、関西地区ではなんと44%をマークしました。公開録画ホールへの入場券にプレミアムがつくほどの騒ぎとなります。
白痴番組は日本テレビの独壇場となり、担当プロデューサーは白痴番組と揶揄されることに誇りを持っていました。揶揄されるということは、それだけ視聴者に注目されていることですからね。この後にも日本テレビは、『底抜け脱線ゲーム』『コント55号 裏番組をぶっ飛ばせ!』といった人気白痴番組を製作していきま~す。
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